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剣道が禁止されていた時代の話


 稽古のできない日々がつづいていますね。稽古はもちろん、試合も、段審査も、すべて中止。こんなに剣道ができない状況は、第2次世界大戦で日本が敗戦国となり、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領下で剣道が数年間にわたって禁止された時代以来、およそ70年ぶりのようです。

 では、剣道が戦争の道具と見なされ禁じられた時代、先人たちはいかに時を過ごしていたのでしょうか。コロナ禍に生きるヒントを求めて、こんな本を購入しました。月間剣道日本1995年10月号。特集はズバリ「戦争と剣道」です。

 この特集には戦中のことも載っています。「荒っぽい戦時剣道は楽しくなかった」とは第9回全日本剣道選手権大会の優勝者である伊保清次範士の言葉。そして戦後、剣道がついに、完全に禁止されてしまいます。進駐軍(日本に駐留した連合国軍)に竹刀や防具を燃やされてしまったり、剣道場が卓球場に変えられてしまったり。もちろん戦後すぐだと、誰もが、食べものにすら困る、生きるのに必死な時代ですから、剣道どころではありませんでした。しかし衣食住が充実してきても、剣道はあいかわらず禁止されたままでした。

 先人たちは立ち上がります。特集記事では、戦後の剣道復興に尽力した、さまざまな人々のエピソードが載せられていました。その中に、山梨の、こんな剣士が紹介されていました。この剣士は戦地から戻ったのち、進駐軍の通訳をして家族をやしない、戦後を生き延びました。そして時代が落ち着くと、なんとか剣道を再開できないかと頭をひねり、進駐軍にかけあいました。フェンシングに似せたルール(八つ割りの竹刀に袋をかぶせたり、一本取るたびに得点を入れて4点、5点と加算していくポイント制を導入するなど)で試合をさせてほしいと交渉したのです。この交渉は見事に成功し、試合が実現しました。

 この人物が山梨の剣道復興の礎(いしずえ)となったことはいうまでもありません。ちなみに、この人物の名前は島田里。そう、大野剣友会の島田稔会長のお父様です。

 戦後、剣道復興に力を尽くした人々のおかげで、今があります。現代を生きる私たち剣士は、個人差はあれど、そしてたとえ無意識にでも、剣道を単なるスポーツとしてだけでなく、礼法作法、思想も含めた、いわば文化として受け継いできました。そして剣道という文化には、戦後の剣道復興に尽力した人々の精神的DNAも含まれていると思うのです。

 剣道は武道です。「武」という文字の成り立ちは、「戈」(ほこ)を「止」める、です。すなわち武道は、相手の攻撃を止める道です。

 今、わたしたちを攻撃しているのは未知の相手、新型コロナウイルス。その猛攻撃を止めるために今、わたしたちが剣士ができる最大の「攻め」は、いわゆる稽古を我慢すること。悔しいジレンマですが事実です。だから、我慢するしかない。我慢しましょう。

 でも、いつか剣道ができるようになったら、剣士みんなで力を合わせて剣道界を盛り上げたい。そのために今、自分にできることは・・・・・・さ、素振り素振りっ!

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